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福島県における被災状況と民俗芸能の再興

福島県
懸田弘訓

1,被災状況
 平成23年3月11日の午後、福島県は震度6強から6弱の地震に見舞われた。その数十分後に襲った津波は、高いところでは15メートルを超え、浜通り地方の海沿いの集落をことごとく流し去った。その結果、人的被害は3,112人、行方不明は211人(2013.2.13現在)、家屋の全壊21,000棟、半壊71,777棟(2011.10現在)という、未曽有の惨状であった。ところが福島県はこれだけではすまなかった、津波の直後に東京電力第一原子力発電所の事故が起きた。そのために高度の放射能が飛散し、身支度をする暇もなく避難を強いられた。まず、30キロ離れたところへとの指示で、町内あるいは近隣の市町村の公民館や学校・体育館に避難した。しかし、それも束の間、そこも高いと分かり、何と一応落ち着くまでに15回も移動した家族もある。やがて仮設住宅も造られて入居しただが、その人数は99,072人、県外への避難も59,031人に達した。さらに追い打ちをかけたのが風評被害で、人権無視に近い発言もあり、2年過ぎた現在でも地震・津浪・放射能・風評被害と、四重苦に翻弄されている。
 福島県内には今なお800か所以上に民俗芸能が伝承されているが、少なくとも津波で60か所が壊滅し、さらに放射能汚染により200個所以上が継承の危機に瀕している。それも芸態に地方色があり、文化財としてもすぐれているものが今回の被災地に多い。


2,再興の現状
 被災した集落の中には、被災の数か月後に再興に着手したところがあり、その後も多いとはいえないが予想以上にその動きがある。その一部を紹介したい。
 相馬市の海岸沿いの原釜・松川・磯部は、漁師の多い集落である。ここも津波の圧倒的な破壊力で一変した。防風林は消え、民家はほぼ全戸が壊滅した。原釜の人口は1,225人であるが、津波で99名が亡くなった。ここには漁師の厚い信仰に支えられた津神社があり、4月には神輿渡御が行なわれ、お旅所では老若男女が総出で、獅子神楽などさまざまな芸能が行なわれる。神楽には「三人剣」「鳥刺し舞」「観音畑」などの余芸もつく。しかし、保存会長が亡くなり、会員も家族を失っているだけに、震災の年の祭礼は休んだが、1年後の4月には、壊滅した集落の中の祭場で、ほぼ以前通りに行なった。
 磯部は200余戸の集落であったが、大きく破損しながらも残ったのはわずか3棟で、松林も立ち木もすべてなくなり、一面瓦礫と水たまりで、かつて民家があったとは思えない惨状である。そのために人口1,218人のうち、243人が亡くなった。墓地を訪ねたら両親と小学生の子ども2人を一度に亡くした家があった。おそらく残されたのは祖父母だけであろう。まさに悲惨という以外に言葉はない。鎮守寄木(よりき)稲荷神社の4月の春祭りには神楽が演じられるが、獅子頭から諸道具まですべて流されたために震災の年は休んだ。しかし,翌年には再興し、多くの信者が仮設住宅から参拝に訪れ、舞い納めた後、悪魔祓いにと獅子に頭を噛んでもらっては、安心して帰途についていた。
 南相馬市小高区は平成24年3月まで警戒区域で、立ち入りは禁止された。国指定重要無形民俗文化財の「相馬野馬追」は、旧相馬中村藩全域を挙げての行事だけに、今回の原発事故の影響は大きかった。それでも被災して4か月後の7月下旬に、略式ながら実施した。ことに重要な「野馬懸」の祭場である相馬小高神社には立ち入ることができないだけに、警戒区域から90メートル離れた原町区字高の多珂神社を借りて実施した。それにもかかわらず予想の3倍を超える騎馬武者が集まった。平成24年は、ほぼ例年とおりに実施した。同じ小高区の村上には神楽と田植踊が継承されている。村上は90戸のうち74戸が流失し、かろうじて残った家も住める状態ではない。さらに気の毒なことに、田植踊の保存会員39名のうち、会長・副会長を含む12名が津浪で亡くなった。それでも1年後には再興を決め、10月に郡山市で開催された「ふるさとの祭り2012」で演じた。この田植踊は主として女性が踊っていて、県内ではもっとも洗練されたものである。近年は地元の小学生にも伝授し、踊だけでなく歌も太鼓もすべて受け継いでいる。
 浪江町はほぼ全町が警戒区域、一部が避難準備区域で住民は全員県内外に避難している。しかし、一部の芸能は再興した。請戸は古くから漁港として発展してきた集落で、ここには神楽と田植踊があり、田植踊は地元の小学生が踊ってきた。集落は一軒も残らずといってもよいほどの482戸が流失し、182人が亡くなった。それでも被災地ではいち早く4か月後の7月に役場が移転している二本松市で練習を始め、8月20日にはいわき市小名浜のアクアマリン(水族館)で披露した。その後、県内外から招かれ、明治神宮を初めてとしてすでに20数回披露している。
 双葉町は地震で倒壊した家も多く、放射線量も高いために町の全域が警戒区域で,全員が避難している。ここには神楽や田植踊、じゃんがら念仏踊などが伝承されている。そのひとつ前沢地区の宝財踊は、女性によって継承されているところから「女宝財踊」いって、祭りや各種の催しで人気をはくしていた。しかし、この震災で保存会員の半数は県外に避難しているために、「ふるさとの祭り2012」の出演が最後といっていた。ところがこれを契機に、全会員の再開の機会になること、観客に喜んでもらえたことなどから使命を自覚し、継続の機運が高まった。


3,まとめ~再興の原動力と今度の支援
 これほど被災しながら、祭りや民俗芸能の再興がみられるのはなぜか、またそれを支えているのは何であろうか。過去にも例があった。
 「天明の飢饉」は天明2年(1782)から5年間続き、今回同様に東北地方の太平洋沿岸に、ことに大きな災害をもたらした。福島県では旧相馬中村藩の被害が大きかった。餓死や離散で、最終的に領民は約3割にまで激減した。それでも藩が復興できたのは、二宮仕法を取り入れたこと、獅子神楽と田植踊が急速に広まったことによると思われる。藩内の7つの郷には郷社として雷神社が祀られており、藩主は春は豊作祈願、秋はその感謝として神楽を奉納するよう奨励したといわれている。相馬市坪田の雷神社には、最盛期には21団体も集まり競って舞った。数は減ったがその風習は今も続いている。それだけに現在も藩内の約170か所に伝えられており、これは県内の獅子神楽の約7割を占める。田植踊も多彩に発展して約70か所に伝えられており、これも約6割を占める。過酷な被災であったにもかかわらず、復興できたのは、これらの芸能が精神的な支えになったからであろう。
 今回の大震災でも、同じようなことがいえる。再興できた理由を列挙すれば、次のようなことがいえよう。一つは、厚い信仰である。相馬市原釜や磯部のように漁業に携わっている方は、毎日が危険と隣り合わせであるだけに信仰心は強い。「津波は憎いが、海は憎くない」と断言した漁師もいる。これまで先祖代々、長年海に頼って生きてきただけに、海に対する感謝の念もまた深い。
 二つめは、指導者の使命感と責任感である。浪江町請戸の師匠は絶望の縁にあった時、ふと「自分には田植踊がある、ここでなくしたら再興できなくなる」と気付き、声を掛け合い、ついに再興にこぎつけた。平常時でも、民俗芸能などの継承は、信頼されている強力な指導者が不可欠で、このようなときはなおのことである。
三つめは、自己満足だけでなく、社会に貢献できた喜びである。双葉町の「女宝財踊」は、再興後に公開する前には一同でこれが最後といい合っていたが、披露後は「皆に喜んでもらえた」「元気を与えることができた」と感激し、引き続いて継承しようということになった。
 四つめは、被災を契機に祭りや民俗芸能は「ふるさとそのもの」であることに気づいたことである。ある高齢の女性は「家や財産などすべて流されたうえに、祭りまでなくなったらが何が残るの・・」と訴えていた。祭りや民俗芸能は無病息災や五穀豊穣を祈って行なわれてきたことは当然であるが、それだけでなく「絆を深める場」「生きる場」であることに気づいた。日ごろから互いに思いやりを持って協力し合い、苦労を共にして一つのことをなし遂げて初めて、絆が深まり、助け合いの心も育まれる。これがために祖先は苦労を乗り越えて、祭りや芸能を今日に伝えてきたとさえいえるように思われる。苦難に直面したときこそ、祭りや芸能は生きる支えになるのである。
 それにつけても再興は急がねばならない。民俗芸能は「ふるさと」と不可分の関係にある。それにもかかわらず避難先に定住する方も増えており,放射能が心配で「戻られない」ではなく「戻らない」とする方が50%もいる。子どもがいる両親は、ことにその思いが強い。用具などの新調も避難生活では負担が難しい。練習場や公開の場もない。先が見えないことは、生きる希望を失わせる。心あるお力添えをお願いしたい。

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