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震災からの復興に、自然と歴史と文化を

岩手県大槌町 教育委員会 生涯学習課長
佐々木 健

■はじめに
 震災復興の話からは、かなり逸れる話から始めたい。
 ずいぶんと古いことだが、阿久悠という作詞家が次のように書いていたことがあった。


  旅立つ思いを知っていたのか、昔の写真を見ては泣いてた
  古いレコードが針飛ぶように、「好きよ」とそれだけ繰り返してた


 沢田研二の「燃えつきた二人」の二番の歌詞冒頭。三億円事件を題材にしたドラマ「悪魔のようなあいつ」の主題歌、「勝手にしやがれ」は、たしかその年のレコード大賞を。これらは「いくつかの場面」というアルバムに収められている。
 東京に暮らし大学生だった私には、当時、これが大人の世界の話かと、ある種の羨望があったのかもしれない。
 「古いレコードが針飛ぶように、それだけ繰り返す」、みたいなことを今、行っている自分がいることに気付かされる。


■14.5メートルの防潮堤
 ここから本題に入りたい。
 継続することの大切さは、ここで論じるまでもない。況んや、言いっ放し、やりっ放しなどは、相手にしたくない。
 震災復興。この文字をパソコンで入力するのには、三秒もあれば済む。けれど、復興はいつになることやらである。所謂定年まであと4年。それまでに、なんて到底無理なことである。自分の町が、復興。どんな町になるのであろうか。いや、そんな客観的な立場でモノを言えるのなら、まだ気が楽である。行政の職にあって、物事を前に進めなければならない立場にあるとき、悠長に構えてはいられない。計画策定の業務もそうであった。
 誰もがそうであるとは言えないかもしれないが、自分が興味関心を持つことについては、蘊蓄を並べたりいとも容易く行えるであろう。もちろん、すべての知識が正しいと言えないとしてもである。
 復興計画の柱となるもの、それは、人々の暮らし、そして防災。そこに、文化芸術など入り込む余地はない、いや、なかった。
 けれども、ハード整備のことだけが先行してしまうことに、大いなる危惧を抱かざるを得なかった。答えは明白である。そこに暮らすのは、生身の私たち人間であり、すべての生き物も、である。「コンクリートから人へ」と宣った政党がかつてあったが、そういう次元の話ではない。


 今回の震災津波は、自然の中に暮らしていることを、改めて考えさせられた。過去の経験から、防潮堤の高さは6.4メートル、それで護られると信じてきた。けれども、人工的な「モノ」は、悉く破壊されてしまった。そして、今度は14.5メートルの堤防を築き、その中で暮らすことを選択した。住民との合意である。そのことは、所謂「復興計画」に、ある。


■合意形成のパラドックス
 平成23年12月に策定された「大槌町東日本大震災津波復興計画基本計画」。「はじめに」に、計画の策定に当たっては、住民とともに創り上げる視点から、町内十の地域からなる地域復興協議会を立ち上げ、議論していただきました。意見の取りまとめ役として、東京大学を中心とする専門家にコーディネーターを務めていただきました。このほか、再生創造会議の委員や復興まちづくり創造懇談会のアドバイザーからも多くのご意見をいただき、計画に反映させていただいております、と碇川豊町長は書き残した。
 一方、同報告書の後段に策定体制が記されている。そこでは、懇談会について、「震災を乗り越える新しい大槌町のまちづくりを展望していただき、喫緊の短期的課題から5年、10年先を見通した中長期の課題の解決に向けて、アドバイスをいただいている」と懇談会が行われたことは取り上げられてはいる。けれども、具体的な内容、報告書の内容、存在のことは、遺憾ながら触れられていない。
 復興計画策定のプロセスにおいて、「大槌町復興まちづくり創造懇談会」が存在した、存在していたのである。けれども、既述のように、その存在は文字に残されても、多くの具体的な提言は、世に知られることには至っていない。
 その報告書には以下のようにその懇談会を意義付けしている。それは、町長の諮問に応じ岩手県内外の専門家が意見・提言するための懇談の場、という位置づけである。さらに、多方面に渡る高度で専門的な知見の結集が求められる、とある。「中立の立場で、直接、意見・提言をいただく場としてであり、震災を乗り越える新しい大槌町のまちづくりを展望していただき、喫緊の短期的課題から10年先を見通した中長期の課題解決に向け、忌憚のないアドバイスをいただくことが目的」とされていた。


 この懇談会のメンバーの一人、大同大学工学部准教授鷲見哲也氏は、「大槌町復興まちづくり創造懇談会報告書」に、次のように記した。
 水災害については、リスクから逃げるか逃げないかである。堤防が高くても津波は襲う。リスクからは逃げ切れないが、高台に逃げることはできる。リスクを受け入れてまちづくりをするためには、津波の記憶を継承できるか、どう考えるかである。リスクをどう受け入れるかはコミュニケーション出来ていない。どんなリスクがあって、誰がリスクを請け負うのか話し合うことが必要である。他の納税者からお金をもらうのか、自分たちで積み立てていくのか。遠い将来の資産リスクを負う法制度の整備が必要である。
 町方から撤退する決断をするのであれば、そうすべきではないか。説明は可能である。
リスクを回避したら、人類はリスクに鈍感になる。それが人間の歴史だ。人間は獲得したものを放棄することも一緒に合意すべきである。


 この鷲見氏の提言は、復興計画策定の過程において、住民に示されることはなかった。つまり、14.5メートルの防潮堤を選択するプロセスに、創造懇談会の提言は示されることはなかったのである。


■町民憲章が目指す「まち」
 総合計画は、地方自治法第2条第4項「市町村は、その事務を処理するに当たっては、議会の議決を経てその地域における総合的かつ計画的な行政の運営を図るための基本構想を定め、これに即して行うようにしなければならない」とあり、これを根拠に策定する自治体の全ての計画の基本となる最上位の計画とされている。復興計画はその上にはない。
 自治体毎に策定された総合計画は、目指すべき「まちづくり」の根本的なことを「憲章」として、その多くが条例で定めている。
 昭和48年10月20日に制定された「大槌町民憲章」は、以下のとおりである。
1 自然を愛し自然を大切にしましよう
1 産業を興し豊かなまちをつくりましよう
1 健康できまりある生活をしましよう
1 香り高い郷土の文化を育てましよう
1 安全で住みよいまちをつくりましよう


 復興計画を策定する作業途中にあって、優先される検討項目は、住民がどこに暮らし、どういう生計を立てるか、であった。
 そうした中にあって、町のアイデンティティーである「文化」に関する推進施策の盛り込みを、私は強く発言してきた。なぜなら、憲章によってあるべき町の姿を具現化するには、そこに人々が暮らし、営みが繰り返される、そうした日常がそこには存する、そうあらねば「まち」ではないのである。


まちづくりのゴールである町民憲章に、自然も文化も謳われてはいるが、、


まちづくりのゴールである町民憲章に、自然も文化も謳われてはいるが、、

■2割の自治体の未来
 文化庁による、「文化芸術による復興推進コンソーシアム」、この復興推進員の任を受け、何度かの会議に出席させていただいている。ここで、ハード整備のみではなく、どういう「まち」を「つくる」のかにおいて、「文化」に関する施策展開を欠いては、無味乾燥の金太郎飴的な「町」になってしまうことを危惧すると発した。
 後日、同コンソーシアムの事務局は、悉皆ではないが、被災自治体の復興計画を調べ、その2割の自治体において、文化に関する記述がないことが報告された。
 渋谷昌三氏の「コップ半分の水」とは次元が異なるであろうが、「8割の自治体が文化を盛り込んだ」と楽観して良いのか、「2割の自治体が文化を盛り込んでいない」と悲観すべきなのか、、、


■言葉は、過去と現在と未来を繋ぐ媒体
 人間は、自分の言葉で思考する。感情も、言葉である。言葉は、文字で覚えるのではなく、音声として認識され、それが文字に置き換えられ、情報として、さらには知識として蓄積される。人間が優れているのは、その知識を知恵に変える「術」を知っていることであろう。
 その「術」、これもまた外的刺激である、情報。つまりは、音声で得られる文字、或いは視覚におけるそれであろう。
 かつて、平成の大合併の嵐が日本全土を襲った。ご多分に漏れず、我が大槌町もかつての鉄の町釜石との合併が画策された。当時、役所の企画担当にあり、合併しないことを、「まちづくり指針」にまとめた。平成16年のことである。以下にその一部を引用したい。
 (略)そして今、次のような結論を導くに至りました。それは、「持続可能なまちづくりを目指す」というものです。また、スケールメリットの考え方とは別の視点でこれからの「まちづくり」を俯瞰すると、これまでのような大きな成長が望めない現実にあっては、「地域の成長」を考える時、これまで歩んできた時間と知恵の蓄積を踏まえ、身の丈にあった「地域の成長」を目指すことが、町民憲章が求める「まち」により近づける方策であると考えます。もしかすると、人によっては広大な遊園地が欲しいかもしれません。しかしながら、毎日そこに遊ぶ訳にはいかない現実があります。一方では、大槌町固有の、オンリーワンのものが沢山あります。他に比して優れたものがたくさんあります。それは、自然であり、先人が育んできた歴史や文化でもあります。そしてなりより、それらが様々な変遷を経ながらも、現代に継承されてきたことです。


枯渇することのない湧水、盛り土や公園整備により消えてしまっていいものか


枯渇することのない湧水、盛り土や公園整備により消えてしまっていいものか

■鍬
 江戸時代の大槌の仏教者、菊池祖睛は、「鍬讃」と呼ばれる軸に、次のように記している。


そもそも神世のむかしより
今に伝じて敢もかわらず
広くは国を治め
少しくは家をととのう道具にして
雪中の笋もこがねの釜も
みな是より掘出せり
されば米も麦も銭も金も
都て是より出でざるはなし
自在自由の此ものを忘れて
及ばぬことを願うべからず
  畑に田に
   うち出の鍬や
    小鎚より


 今さら言うまでもないのであろうが、「文化」という日本語は、明治の福沢諭吉等が英語の culture から作り出した言葉。culture は「耕されたもの」、その語源は、cultivate 耕す。土を耕すと、Agriculture農業、水を耕すと、Aquaculture 養殖、自分自身を耕すとSelf-culture 自己修養、という言葉が派生している。
 耕す行為、いついかなる時も、不可欠である。


江戸時代の仏教者、菊池祖睛の「鍬讃」


江戸時代の仏教者、菊池祖睛の「鍬讃」

■文化とは
 ひょっこりひょうたん島や吉里吉里人を著した井上ひさしは、次のことばを残している。
「文化とはみんなの日常生活を集めたものである」
 井上のふるさと山形県東置賜郡小松町、現在は川西町。近傍の温泉に幾度も足を運んでいたようである。かみのやま温泉の「古窯」に、その文字が記された楽焼きの皿を見つけることができた。


■おわりに
 「古いレコードが針飛ぶように、それだけ繰り返す」、みたいなことを今、行っているのである。
 震災からの復興に、自然と歴史と文化を。


 復興はいつになることやら、ため息も出よう。けれど、そこに暮らす人間は、コンクリートの中ではなく、自然と歴史と文化と共に生きている、はずである。

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