忘れない 文化芸術が紡ぐ絆を信じ 8
渡辺 一雄
今回は、震災復興を高齢者、障害をもつ方々など要援護者はどのように見ておられるのかという観点から考えてみましょう。
文化は人間が生きていくうえでの、生活スタイルの基盤となるもので道路や電気・ガスと同じようにインフラと考えるべきとの主張(端信行・兵庫県立歴史博物館館長、コンソーシアム調査研究会委員)があります。また、同氏は生きることはすなわち文化であり、その部分が復興できなければいくら物理的・物質的復興が進んでも真の意味での復興とは言えないとされています。
芸術や文化は「生活復興」の後から補うことができるという性質のものではなく、それは人命や生活と一体のものであり、そうした考えを常日頃から「社会的習慣」として共有されているべきとされています。(括弧は筆者加筆)著名な文化人類学者としての卓見というほかはありません。
なぜ筆者がこの見解に注目するのか、少し説明がいるように思います。
文化とは文化人類学では、集団の成員や集団自体を形成・維持するためのあらゆる生活様式、ないし思考様式とされ、芸術文化概念より広いとされています。従って、震災という自然災害を契機に人間の生き方、考え方の根本に変更を迫る事態に直面した今回のケースを想定すれば、人命や生活と一体化して要援護者の生活様式の在り方そのものを文化復興として考えてみる意味はあると考えます。
ならば「人の完全復興は困難、費用と時間をかければ確かに復興は進むが、この復興について来られない人々が居ます。瓦礫処理が済めば、1年か2年で家を建てることができるのが通常だろうがもはやそのような活動ができない人々が居る。」(同氏)との指摘は、単に個々人の考え方、事情の違いに起因すると片付けて良いとは思えないのです。
こんな障害者の事例報告があります。
電動車椅子では外に出られない。屋内はバリアフリーだったが玄関にスロープがない。誰にも邪魔されない90分に津波が襲ってきた、これは補助者が居なかった例です。
軽度の知的障害の生徒が下校途中高齢の老人が家で着替えていた(窓からは津波がみえていたが鷹をくくっていた)のを目撃していたにも関わらず、外見的には何でもできた子、しかしあと一歩(逃げろ!の声)がなく老人を救えなかった例ともいえます。
仮設住宅に入ってからの生活は、(1)砂利道・階段・通院を我慢する、(2)食事も佃煮、インスタント食品、野菜ジュース、カップ麺、野菜・肉・魚と材料のバランスは取れているが揚げ物一辺倒の福祉弁当、(3)表札がないので戻ってこられない、(4)視覚障害夫婦がラジオを聴いているが、唯々じっとしている、(5)便所にあまり通えないので水分補給を抑えるなど周りから見ていて黙している姿が目に付きます。これは満足しているのでは決してなく、我慢をしているに過ぎないことを物語る例です。
「個人情報保護」の“壁”が指摘されることもあります。それは、プライバシー保護という法益の一方で、障害者の身元確認や緊急時の避難誘導における隣近所、向こう三軒両隣の常日頃の情報共有を阻むバリアになってしまうという実態が浮かび上がっているのです。
文化復興・再生を改めて考える場合、こうした障害者の方々の目線で生活復興のデザインを構想しないならば、それは単なる以前の状態に戻す、復旧に留まることになり、復興再生を享受すべき生活主体者全体から取り残され、いわば「復興についていけない人々」として文字どおり世の片隅に追いやられることになるのではないでしょうか。
損壊した文化会館の避難路確保等の再建のデザインはもとより、緊急誘導時の対象者の居住状況、救命後の栄養・保健・教養娯楽その他のあらゆる生活条件の細部において、これまで以上に慎重に障害者に寄り添うことで、広義の「文化復興」の要件を明らかにしてそのための環境整備が図られねばならないといえるでしょう。
じっと我慢して黙っている高齢者、障害者の姿には一般成人、健常者にとってなかなか見えにくい復興の視点が実は隠されています。このことを忘れてはならないと思います。