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【震災から3年】いつまでも忘れない ~いま大切なのは、つづける“わ” Vol.4~ 『はこ舟に乗せた祈り』

森のはこ舟アートプロジェクト 三島エリア コーディネーター
三澤 真也

 


 日本有数の豪雪地帯である福島県大沼郡三島町。1年の半分は雪に包まれるこの人口1800人にも満たない小さな山村の町へやってきて5年が過ぎようとしている。元々ゆかりがあった土地ではない。飛騨高山で2年間の木工修行を終えようとしていたとき「この後何処へ行こう…。」次の進路を模索していた。10年近く生活し、友人も沢山いる東京へ戻ろうか、それとも田舎へ行こうか。都会か田舎か。考えた末、田舎を選んだ。実家のある長野県が良いか。そんなことも考えたが何となく窮屈な気がしてやめた。元々大学の卒業式の次の日にバックパックを背負って旅に出て以来、国内外を2年以上旅してきた。そんな経緯もあり「知らない土地も面白そうだ。」軽いノリと、先輩のつてでたまたま木工の求人があった「三島町」という場所に、何となく「呼ばれている…。」そんな気がしてこの町を選んだ。


 三島町へ引っ越してきた当初は知り合いもいなければ、4月の三島町といえば春の到来はまだ先で、木々は立ち枯れているかのように沈黙し、冬の間に積もった雪も半端に融けて、ただでさえ知り合いのいない私の心境をなんとも助長するような寂しい風景のなかで生活を始めたことを憶えている。


 そんな風に感じていた5年前の自分が今はなぜこんなにもこの土地が豊かな場所だと感じているのだろう。私は今、この場所をかけがえのない場所だと思っている。


 もちろん、4月には物悲しいと感じた自然が春になると初々しい新緑の生命力に溢れ、夏の夜には蛍が舞い、秋には広葉樹の山々が木々を染め、稲刈後の田んぼの匂いが懐かしく、そしてまた雪に覆われた冬でさえ、そのシンとした静けさや、色のない光と影の世界、その美しさに感動する。そんな表情豊かなここの自然に惹かれていることもある。


 けれども私がこの5年間を通して、一番この土地にかけがえのなさを感じているのは、自然と寄り添いながら山村で暮らす人々である。彼らがみせる表情や、自然から授かり生きる技術、そして彼らの生き方そのものである。


 


  彼らの手にはいつも土が付いている。そして、とても丈夫に見える。冬でも素足で歩いている。いつも待ってくれない自然に合わせて、いそいそと働いている。身体を動かし汗をかき、ご飯を美味しそうに食べ、酒を呑めば楽しそうに笑う。とても人間らしく、動物らしく、人間も動物であり、自然の一部であることを感じさせてくれる。やがて訪れる死さえも当たり前なことのようだ。


 生きることに意味などなく、木々が葉を落とし、やがてまた春が来て、秋になるとドングリが生り、それが落ちればリスがせっせと拾う。そんな山の営みのひとつとして、死というものがあることを感じさせる。死は営みの一部であり、終わりではない。安心して良いのだ。


 それからこの土地は時間の必要性を教えてくれた。都会にいるときの自分は何でもすぐに解った気になっていた。けれども、頭で理解することと、身体で憶えること、つまり体得することは違う。頭で理解することはすぐにできる。けれども体得するためには時間が掛かる。例えば山から材料を採ってきて、カゴやザルを作るとなると、何年も掛けてその技術を習得する必要がある。上手くいかない、そんな歯痒さを繰り返しながら手を動かしていると、あるとき突然それが出来るようになる。そのときの喜びと歯痒さを繰返しながら上達していく。そこには教える人が憶えた年月と、教わる人の憶える年月が重なりながら横たわっている。そして材料を伐るための山もまた、限られた人生の歳月を幾重にも重ねて、憶えて、伝えていく。


 そうやってここの人達は縄文の時代から少しずつ豊かに暮らすための術を改善させてきた。おそらく人生が100年足らずで終わることは丁度良いように出来ている。そんな当たり前の摂理もこの土地は教えてくれた。


 この土地の豊かさ、それは人間も自然の一部として、サスティナブル(循環可能)に生きていくことができる、それを体感させてくれるところである。


 この地へ来てから2年目の年に東日本大震災、そして原発事故を、私はこの地で迎えた。この地の放射性物質による被害はそれ程大きくはなかったが、それでもやはりその影響は0ではない。野菜などから放射性物質は殆ど検出されないが、山菜やキノコの中には検出されるものもある。ここにあるすべての豊かさや、かけがえのないもの、それら一切を享受できないもの、伝えることができないものにしてしまう。大地に放射性物質が降り注ぐとはそのことを意味する。この星で原発は扱いきれない。そう思う。


 それからまた原発事故による影響のみならず、この土地は日本の多くの地方と同じように過疎高齢化の問題に直面している。今、これからの日本の未来にとって、かけがえのない財産であろう、自然と共生していく技術のひとつひとつが紡ぎ手を失ったまま、途絶えようとしている。


 今年度「森のはこ舟アートプロジェクト」というプロジェクトが、福島県会津地方の喜多方、三島、西会津の3エリアで豊かな森林文化をテーマに開催されている。



 私がコーディネーターを務める三島町エリアにも5人のアーティストが入り、地域の課題に地域の方々と向き合い、アートを通して未来への風穴を開けようと三島町と向き合っている。

 そのなかの1人に「食」をテーマに活動を続けているEAT & ART TAROというアーティストがいる。EAT & ART TAROは、本年度三島町間方まがた地区をフィールドに、間方地区に今尚残る豊かな食文化「トチ餅」と「雪中納豆」の作り方を紙芝居のレシピにして残そうというプロジェクトを進めている。

 トチの実は、何段階もの行程を経なければ、上手く渋みを抜くことができない。また雪中納豆に使う藁は、うるち米の藁でなければ納豆にならないなど、どちらの郷土食も要所要所にコツがいる。けれども、話を聞いただけでは上手くイメージすることも再現することもできない。そして、どちらの料理も集落のなかに作り手は、あと僅かに2、3人しか残っておらず、今伝えておかなければ歴史の縦糸はまた1本抜け落ち、ほころんでしまう。

 そこで、EAT & ART TAROは、元々間方地区のなかで村興しのために使われていた伝説や伝記の紙芝居の手法に着目し、「トチ餅」と「雪中納豆」の作り方を紙芝居のレシピにして地域に残していくことを決めた。
 
 またライトアートの草分け的存在、逢坂卓郎は三島町の大谷地区をフィールドに、震災以後エネルギーの在り方を見直す目的で立ち上がった「NPO会津みしま自然エネルギー研究会」と恊働して本年度プロジェクトを進めてきた。

 本プロジェクトは、水車や、ペルチェ素子と呼ばれる温度差によって発電する素子を利用して、最先端の発電システムをプロジェクトメンバー自らが自作し、その風土に即したハイブリットな自然エネルギーのみを利用して、大谷地区の山村風景をライトアップする試みである。またプロジェクトを進めるなかで、筑波大学の村上史明氏の協力も得られ、技術的なサポートや村上氏の授業を履修している学生18名も三島町へ入ってきて、プロジェクトを進展させている。ゆくゆくは、これらハイブリットな自然エネルギーを生活のなかにも取り入れて、三島町のなかに最先端な自然エネルギー集落を発生させる、そんな目論みも逢坂卓郎のなかにはある。



  このように本プロジェクトは集客型のアートイベントのような華やかさこそないけれども、私は今まさに取り組まなければならない事業だと強く感じている。このプロジェクトで出来ることはとても小さく、自分たちの非力さを実感することもまだまだ多い。それでも、たとえ掌一杯の希望であっても、未来に芽吹くこの一粒一粒をしっかりと「森のはこ舟」に乗せて、未来へと漕ぎ出したい。


 


森のはこ舟アートプロジェクト >>> http://www.morinohakobune.jp/
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プロフィール

森のはこ舟アートプロジェクト 三島エリア コーディネーター
三澤 真也
(みさわしんや)
1979年5月23日、長野県諏訪市生まれ。
長野県立諏訪清陵高校卒、武蔵野美術大学造形表現学部映像学科卒。大学卒業後20代は絵画、映像、パフォーマンスを中心にアート活動を展開。国内外でパフォーマンスアートフェスティバルに多数参加。アート活動の傍ら2年ほど国内外を放浪。その後飛騨高山にある「森林たくみ塾」にて2年間の木工修行を経て、三島町生活工芸館の木工指導員として勤務。現在同三島町にあるNPOわくわく奥会津.COMに勤務しながら、復興アートプロジェクト「森のはこ舟アートプロジェクト」に三島町エリアコーディネーターとして参加。
http://www.morinohakobune.jp/ (森のはこ舟アートプロジェクトホームページ)
http://www.wakuwaku-okuaizu.com/(わくわく奥会津.COMホームページ)

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