ご覧のページは、これまでのコンソーシアムのホームページを活用し、コンソーシアムの活動記録や資料等をアーカイブ化したものになります。

ミュージアムの被災から復旧、再開のプロセスが映し出す新たな仕組み

仙台高等専門学校建築デザイン学科 教授
坂口大洋
仙台高等専門学校建築デザイン学科
教授 坂口大洋

1.施設再開に向けて問われ続けたもの
 発災から2年が経過し、日々変化しながらも復興に向けた現場では様々な課題が新たに発生している。
 被災地の多くのミュージアムは昨年度までにほぼ再開し、一見すると発災前と変わらない表情を見せている。
 だが、津波の被害を受けた石ノ森萬画館は2013年3月に2度目の改修工事を経て本格リニューアルオープンし、同年4月には気仙沼市立リアス・アーク美術館が常設展を含め全面的にリニューアルをして本格的に再開した。他方、被災地の小規模自治体の資料館では、未だに閉館状態が続く施設もある。多くの報道で語られる復興のスピードが遅いというよりも、復興状況の進捗の格差が日に日に拡大していることが、現場に近いところに身を置く筆者としては率直な実感である。
 これらのミュージアムの被災から再開へのプロセスは、なぜ再開する必要があるのか、地域におけるミュージアムの役割とは何かという本質的な問いを問われ続けたプロセスでもある。
 阪神.淡路大震災においては、再開したものの数年後に活動状況が悪化した施設が幾つかある。縮退社会の中、今回の震災において何とか再開した多くのミュージアムも同様の状況に置かれており、ミュージアムの意味を問われたプロセスはこれからも続く可能性がある。
 他方、阪神.淡路大震災を契機に立ち上がった文化財レスキュー事業などの様々なネットワークが、今回の再開へのプロセスにおいて重要な役割を果たした。施設と人、施設と施設、施設と地域など今後のミュージアムの在り方を考える一つの手がかりがあるように思える。
 このような問題意識のもと、本稿ではまずミュージアムの被災から復旧までのプロセスに着目し、如何に歩み再開に至ったか、そして再開後の課題とは何かについて整理を試みる。
 次に再開へのプロセスをネットワークの視点から捉えなおし、幾つかの具体的な関わりをスタディしながら、震災を契機にミュージアムの在り方は変わるのか、変わるべきなのか、そして次への道筋を探る。
 筆者は、発災直後に施設の被災状況の調査を行い、昨年度宮城県や福島県の約20近くの美術館・博物館を訪問し、学芸員の方々に発災から再開までのプロセスと再開後のアクティビティに関してヒアリングをする機会を得た。本稿は、筆者の研究室の関連の調査研究やそこで得られたヒアリングの内容をもとに、上記の課題を捉えていくものとする。


2.東日本大震災の被災から復旧のプロセス


1)地震発生時と発災直後
 まず筆者が関わったミュージアム調査の内容をベースに各プロセスに応じた再開へのプロセスを細かく見てみよう。
 仙台市内のミュージアムは、全般的に建築的な被害が少なかったケースが殆どである。この要因としては、立地条件、施設自体の耐震性などのハードの要因もあるが、発災時が平日の午後であったこと、各施設の利用者が少なかったこと、発災以前から宮城県沖地震の発生が指摘されており事前対策の実施や意識が高まっていたこと、現場スタッフの適切な避難誘導などが地震や津波による直接的な被害以外の二次災害を抑えたことに繋がったことなどのソフトの側面も大きい。
 しかしながら、7 階の天井が崩落したせんだいメディアテーク、壁面が損傷した仙台市歴史民俗資料館、ピロティー下部の天井面が崩落した仙台文学館など、建築的な被害が大きかった事例もある。
 地震発生直後の動きは、多くの施設では当日 20:00 頃までに殆どの施設が閉鎖されたが、一部の施設では近隣の住民が避難してきたことにより、避難所として運営された施設もある。
 また、仙台市八木山動物公園などでは、動物などの生態管理のために、スタッフが24 時間体制の対応を余儀なくされたケースもある。
 少し具体的な事例をみてみよう。
 せんだいメディアテークでは、開館 10 周年記念のシンポジウムの開催前日でスタッフ約30 人がその準備にあたっていた。発災直後に階段を使って施設外の北側駐車場に避難した。冷え込みが厳しかったため、様子をみて職員・利用者約 60 人程度を幾つかのグループに分け、必要最低限のものを取りに戻った。取りに行けない場所については後日改めて引き渡すことで利用者は帰宅した。その後、職員は手分けして館内を見回り、全体的な被害状況を把握した後、20:00 頃全員解散した。
 また、宮城県美術館では発災時約10名ほどの利用者とスタッフを含め全部で 40 人ほどが館内にいた。 直後は一旦アプローチへ避難し、その後スタッフが被害状況を確認した。けが人がなかったため帰宅可能な者から帰宅させる対応をとり、、残った職員で簡易的な被害の確認と作品退避などを行い、警備担当は館内に宿泊をするなどの対応をとった。また自家発電による明りがあったことなどから、近隣の住民が避難してきたことにより、一時的に避難所となった。
 他方津波により甚大な被害を津波の浸水地域のミュージアムは当然異なった様相を示す。沿岸部に立地していた石巻文化センターの場合は、地震の直後から大津波警報とスタッフ間で津波の襲来が予想されたこともあり、迅速な避難が行われたが、壊滅的な被害の中、警備のために、スタッフが交代して24時間野営するなどにより対応した。近隣の石ノ森萬画館も同様に一階部分が浸水をしたが、利用者とスタッフは一時的に3階部分に避難した。収蔵品等は上階にあったために難を逃れたが、その後関係する美術館に作品を移動し復旧、改修を目指すこととなった。


2)避難所対応の課題と改修工事
 先述したミュージアムが避難所として機能したケースは、今回の場合は施設によっては職員が24時間で対応したが、作品保存の観点からは、一般的に収蔵品は高価な物品が多く、施設の閉鎖方法、作品の臨時的な保管方法などから災害時はベストな状態ではない。不特定多数が出入りする避難所と共存の在り方は、地域との関係も含めて今後の想定すべき課題である。
 仙台市内においてライフラインが概ね復旧する4週間程度は、施設によってはスタッフが市民センター等避難所への応援勤務でしばしば不在となった。職員全員が顔を合わせる機会が減り、職員間の情報共有の難しさなどがあったことも、復旧業務の障害となったとの指摘もあった。
 大規模な改修工事が必要となった施設では、被害の詳細な確認、予算申請、工事発注のプロセスが必要になったことに加え、発災後被災地における建築資材や職人の不足などから、改修工事受注側の施工スケジュールなどが確定させくにい状況となり、改修工事のスケジュール策定及び再開日程に影響を及ぼした。
 また、仙台市の場合は指示書などにより改修工事の調整発注を行うことで、早期再開への目処が立ちやすくなったが、仙台市外のミュージアムでは、国への改修工事の予算申請上求められる被害状況を示す書類の作成、申請手続きなどに時間を要したことなども施設再開の遅れの要因となった。
 用途別では、施設被害が比較的軽度であった場合でも早期に再開できなかったケースもある。収蔵品の再整備、事業等の調整事項などが多く或いは多岐にわたる場合、運営主体が民間や小規模自治体の場合、早期再開が前提条件になりにくいなどの理由がある。ハードとしての復旧とソフトとしての復旧の両面が揃わないと再開に至らない。特に収蔵品が多い施設であったり、小規模な自治体のミュージアムではその傾向が強い。


3)施設再開の意思決定と再開への対応
 各施設は、震災により一時閉館を余儀なくされたが、仙台市内では震災から半年ほどで再開している。公共のミュージアムの場合、再開日の決定は設置主体の行政判断が基本となるが、その基準は、施設の復旧状況と安全性だけではなく、地域の日常生活の復興状況なども再開を判断する基準として重要となった。建築の安全性の確保は再開の前提条件であったが、建築資材や職人の不足等の被災地における建築工事の状況が不透明であったことから、工程の確定に時間を要したことも再開日の確定を遅らせた要因の一つである。
 また、発災前に予定されていた企画事業の関係から再開日を決定した事例もある。特に企画展などの期間中に発災し被害が軽微の場合で会期を大幅に残していた仙台市博物館や福島県立美術館では、再開とともに発災前から開催していた企画展を再スタートした。
 同時に施設側では、非常に短期間に再開した場合の安全管理などを如何に担保するかという判断が迫られた。多数の来場者が予想される中で、余震などの影響も考慮に入れながら、スタッフの勤務体制などを策定する難しさなどもあったようだ。


4)施設閉館時の地域的な影響
 施設閉館中の業務としては、施設事業(予定していた企画(展覧会)事業の休止、再調整)、貸し館などのスペースのキャンセル対応などがある。特に前者は諸々の調整事項があり、かつ複雑な場合もあるために、施設スタッフの負荷となった。またこれらの業務全体は、行政内部の庁内においても意識を共有することが難しい側面があったとの指摘もあった。また、地域内の文化団体においては、活動場所を喪失することで日常的な活動の継続が難しくなったケースも多い。
長期間の閉館は、鑑賞機会の減少だけではなく様々な地域の文化的なアクティビティに与える影響も少なくない。
 仙台市科学館では、長期間の閉館で、施設のミッションである市内の小中学校の理科教育の授業、活動の支援が難しくなったり、発災前から修学旅行や研修などを受け入れてきた仙台市天文台などは、発災後それらがキャンセルされたなどの、地域経済へ与える影響もみられた。


5)部分再開と収蔵品の管理
 多くの館では改修工事等の復旧後に全面開館を行ったが、一部の施設では応急的な復旧工事を経て部分的に再開し、段階的に全館再開に移行するプロセスをとった。仙台市ではライフラインなどの復旧や物流の回復に伴い、市民のニーズに応えるために、安全確認・点検が終了した利用可能なスペースから貸館や展示を再開するなど、騒音の問題を抱えつつも改修工事を並行する或いは展覧会の会期の合間を調整し冬の閑散期に工事期間の調整を行い再開したケースもある。
 仙台市は4月上旬に市の方針としても再開可能な施設はできるだけ早期再開を目指すことが確認され、仙台動物公園、仙台市天文台、仙台市縄文の森広場などは、4 月中に再開した。
 せんだいメディアテークなどは、被害が大きかったものの、行政及び現場スタッフの判断もあり、5月3日に1 階のオープンスクエアーと2階の一部、図書館部分である 3~4Fまでの部分再開を行った。再開当日は開館前から人が並ぶなどの比較的早期に再開した施設では多くの来館者を集め、せんだいメディアテークでは開館以来最多の来館者であったとされている。
 同様に4月に再開した仙台市八木山動物公園などでは、家族連れなど約5,000人を集め、仙台市歴史民俗資料館では、発災後、市内の小中学校の団体見学が増加するなど、震災復興過程のミュージアムの再開は地域的なニーズが高さの一端を示している。特に2012年11月に再開した石ノ森萬画館などは、地域の復興のシンボルとしての意味もあり、非常に多くの来館者を集めた。学芸員へのヒアリングでは、実際に来館した来館者の方たちも今回の再開を機に、初めて地域の公共文化施設に足を運んだ市民も多かったのではないかとの指摘もあり、これらの状況を如何に今後の施設運営に生かすかが一つのポイントである。
 他方長期間閉館を余儀なくされた被害の大きい施設では、部分再開に至るまでのプロセスにも様々な課題が存在していた。
 市内全体が甚大な被害を受けた気仙沼市。気仙沼市立リアス・アーク美術館では長期閉館時も学芸員が長期間滞在し、施設の管理を担うなどの状況が続いた。市内の被災状況が甚大であるために、市内の様々な復旧活動にスタッフが動員されたことや、市内の復旧のために様々な課題への対応も求められことから、施設の再開への具体的なアクションが起こせなかった。その間、学芸員の山内氏を中心とするチームで市内の様々な被災状況を精力的に記録するなどの活動を展開した。その他改修工事や多くの苦難を乗り越えて、リアスアーク美術館は、2012年7月に部分再開し、それらの収集された津波被害の記録を中心とした常設展とともに、全面開館を迎えるのは発災から2年以上経た2013年4月である。
 また、民間ミュージアムの場合は運営主体の状況や判断も大きく左右する。
 仙台市内の民間美術館の一つである福島美術館では、各支援ネットワークとの関係構築が難しかったことや、民間美術館であることから施設再開への具体的な計画策定の着手が遅れたことで、被害程度が軽微あったにも関わらず長期間の閉館が余儀なくされた。
 発災後数日間のライフラインの停止に伴い、殆どのミュージアムの空調が停止し、自家発電等での対応も限定的であった。ただ、収蔵品へのダメージについては、今回の震災では非常に寒い日が少なかったこと、仙台市内などでは電気に関しては数日で復旧したこと、収蔵庫自体の環境性能が高かったことなどから大きな問題とはならなかった。しかしながら、ライフラインが停止し長期間閉館した場合の対応策は今後の災害に向けた懸案事項として残っているといえる。


3.復旧プロセスにおける様々な支援とネットワーク
 ここでは、まず今回の東日本大震災の復旧に関わったネットワークを整理した後に、そのネットワークの意義をみてみる。


1)全国組織のネットワーク
 日本動物園水族館協会では、今回の震災では緊急動物飼料( 飼料業者や全国加盟動物園水族館から提供された飼料)の輸送、緊急動物の移動等の支援活動を行った。仙台市八木山動物公園では、発災直後の緊急対応に日本動物園水族館協会より餌の支援が行われ、園内の動物の生存確保につながった。
 全国科学博物館協議会(全科協)では緊急対応の業務支援と科学系博物館の被害状況などの調査や調査結果の共有などをweb上で公開し、天文施設などでは安否シートなども公開された。仙台市科学館、仙台市天文台などでも情報提供や一部資材の提供等の支援が行われた。
 国内の美術館が加盟する組織である全国美術館会議では、阪神.淡路大震災をはじめとして、自然災害等で被災したレスキュー活動を行ってきた実績があった。発災前から災害対応等の関連資料をHP上で閲覧できるように整備していた。
 今回の調査対象施設においても、発災直後の早い段階から状況確認や情報提供などの支援が行われた。全美による直接的な支援だけではなく、被害や復旧ニーズの情報が関係者間により広く共有されたことで、被災したミュージアムに直接的支援の実現に寄与した。特に復旧の初期段階において、ネットワークを介した情報共有は今回のような大規模かつ広範囲な災害においては、有効であることを裏付けた形となった。


2)歴史系のネットワーク
 次に、歴史系ネットワークを中心とした動きをみる。
 今回の復旧支援で重要な役割を担ったネットワークの一つに、宮城歴史資料保全ネットワークがある。宮城歴史資料保全ネットワークは、宮城県北部連続地震(2003 年)によって被害を受けた文化財の救済活動を契機として設立された。東北大学東北アジア研究センターを中心に、宮城県内の歴史研究者や大学院生、文化財行政に関わる自治体職員等より構成される。平常時から県内の歴史資料の所在を調査することで被災時に救済すべき資料を事前に把握するという全国でも先駆的な歴史資料の保全活動を行っている。
 今回の東日本大震災においては、資料保全の継続性や公共性を担保するために東北歴史博物館と連携し、文化財レスキュー活動を展開し、宮城歴史資料保全ネットワークは2011年9月末までに11件のレスキュー活動を行った。
 具体的には4月6日に行われた旧岩切郵便局の解体の立会い、近世から明治初期に移築した建物の一部の部材等を回収したり、4月22日の仙台市太白区の旧家では、倒壊の危険性のあった土蔵から道具類、屏風、文書資料、古写真などを搬出した。


3)文化財レスキューの具体例
 次に宮城県においては、仙台市博物館、宮城県美術館などが拠点となり、沿岸部のミュージアム施設の復旧支援に関わった。仙台市博物館等へのヒアリングや関連資料から、その具体的な動きをみてみる。
 大震災発生直後から、各地の情報を元に、津波による水損や流失、復旧過程での資料の廃棄など、様々な要因による被害が想定された。博物館では市史編纂室が中心となって、資料レスキュー活動を行った。これまで編纂事業や資料調査の中で、「秋保町史」、「宮城町史」に掲載された資料所蔵者をリストアップし、レスキュー候補の情報を整理した。
 発災直後から、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(略称「宮城資料ネット」)と協力して資料レスキュー活動を行うことを確認し、宮城県文化財保護課、仙台市文化財課とも連携を行いながら、仙台市内外、指定・未指定、個人・施設の別を問わず、資料の被災状況などの情報の共有化などに着手した。4月15日に文化庁・独立行政法人国立文化財機構を中心とした「東北太平洋沖地震被災文化財等救援委員会」が正式に発足し、同委員会が行う文化財レスキュー事業は指定・未指定を問わず、「要請」があった動産系の文化財や美術品について、現場からの救出と応急処置および一時保管を活動範囲としている。
 宮城県の現地本部は、4月18日から7月30日まで仙台市博物館内に設置され、それ以降仙台市博物館を拠点として、宮城県内のレスキュー活動に従事することとなった。
 仙台市博物館では、学芸員や市史編纂室職員を中心としたチームにより沿岸部の被災施設である石巻市文化センターのレスキューを行った。浸水により汚泥や瓦礫が流入したことにより被害が発生した歴史資料、美術資料、考古資料、民俗資料の瓦礫や堆積物の除去を行い資料の救出を行った。救出後宮城県内外の博物館、美術館、大学等に一時避難させ応急処置を施し、これは宮城県内においても最大規模のレスキュー事業であった。


4.復旧から再開プロセスを踏まえたミュージアムの新たな動きと課題


1)震災の記憶の継承
 震災を契機に、その記憶の継承を具体的な事業として展開させたケースもある。せんだいメディアテークでは「3がつ11にちをわすれないためにセンター」を企画し、被災地域周辺の発災時や発災後の記録のアーカイブや、震災に関する様々なテーマに関して、オープンなディスカッションを行うなどの企画を続けている。仙台市科学館では継続して調査を行っている仙台市海岸エリアの蒲生地域などを対象に被災状況と復旧の過程を館内で紹介している。
 他方アート系ミュージアムでは、震災をテーマとした企画展は、テーマ設定の難しさなどから具体化には慎重な動きを見せている。また震災発生後、被災地支援の一環として国内外からの企画展や作品の貸し出しなどの依頼が集まったミュージアムもある。


2)新たな災害対策
 再開にあたり、各館で展示の仕方や収蔵品の固定方法が変更されるなど、早急に災害対策がされた。固定展示ケースガラスには、飛散防止対策を施すなど展示作品と来館者の安全を確保する方法も再検討されている。また、自家発電や受水槽など災害時に機能すべき設備の点検を重点的に行うことや、避難誘導の確認や地震を想定した防災訓練の実施など災害対応における留意・確認点が発災前と比較し増えている。
 収蔵品についても新たに様々な対応が求められつつある。災害時の収蔵品の移動を想定して、綿布団、エアキャップ、段ボール箱等の作品を保護する緩衝材や梱包資材の備蓄についても今後の検討事項として考えられている。
 また文化財レスキューだけではなく、被災した収蔵品の修復などの調査、修復などは東北以外の専門家や業者の協力などが不可欠であったが、ミュージアムの持続的な運営の観点からは、地域内における自立的な災害復旧の仕組みも検討する余地がある。例えば収蔵品の修復などの産業育成やそれらを視野に入れたローカルなネットワークの構築も必要となるであろう。
 また指定管理者制度などの導入により、災害時において即時の施設単体の判断(例えば帰宅困難者の収容など)が難しい局面もあり、ミュージアムの専門性として課題ではないが、短期的な危機対応だけではなく、災害に対応する組織の在り方や震災の経験を組織として共有する必要性からも、指定管理の枠組み自体を議論する余地がある。


3)福島第一原発事故とミュージアムの対応
 今回の震災の特徴の一つである福島第一原発事故の影響は単なる災害への対応だけではなく、美術館の在り方をも大きく変える要素を含んでいた。
 一つは2011年3月下旬から4月にかけて福島第一原発事故の収束が見えなかったことから、幾つかのミュージアムでは今後の影響を懸念していた。特に福島第一原発に近い、福島県立美術館、宮城県立美術館などのスタッフの一部では、最悪の事態として美術館の全館避難が想定されていた。収蔵品の避難を具体的に検討していくと、避難する場所とどの作品を避難させるかという選別を行う重い二つの課題である。
 特に後者は収蔵品を選別するという学芸員にとって極めて困難な判断が要求されることを意味する。その後、一旦事故の収束が見えこれらの懸念は現実化しなかったが、今後の災害対応の検討事項としてであったといえる。
 しかし、実際に直面した課題もある。事故後再開が困難となったり、来館者数が減少したりなどの直接的な影響に加えて、原発に近いミュージアムでは海外の美術館からの作品の貸し出しなどが難しくなり、企画展の内容の変更や開催が難しくなったケースも存在する。
 早期に再開したあるミュージアムでは、企画展の実施にあたり作品を貸し出す側から貸し出す条件として、原発事故が再発した場合への具体的な対応策を問われた。そして具体的な対応策は、避難先の想定にあるように施設単体では解決が難しく、地域以外(具体的には県外など)との連携やネットワークによる対応が求められたことを意味し、ネットワークの災害対応における有効性を示している。


4)地域との関係
 震災を契機に地域とミュージアムの関係が浮き彫りになった点も多い。特に博物館や民俗資料を扱うミュージアムなどでは、地域の歴史との関係を再構築する契機となった。
 仙台市博物館では、発災以前から仙台市史の編纂事業を兼務しており、仙台市内の旧家や寺社などが保有する埋蔵文化財の調査や保護する活動を行っていた。仙台市内では約 1000 件の旧家や寺社が文化財を保有する可能性があると見られていたが、今回は約 280 件の場所を複数回訪問している。職員の訪問の際の反応は文化財保護の人が来るのを期待していた。」などの声があった一方、保有者が文化財としての価値を認識していない例もあった。文化財保護や文化財レスキューといった活動は、日常的な埋蔵文化財の把握や情報の共有の必要性を示すとともに、、民俗資料の価値を地域内に周知していく機会でもある。
 また、地域とのつながりが学芸員個人の属人的なものではなく、システムとして継承されていくための課題もある。現実的には地域の歴史や継承は学芸員個人のノウハウや記憶に依拠する部分が圧倒的であり、宮城県でもそれらの地域内の文化財の系譜が共有できる学芸員関係者は数人しかいないという指摘もあり、今回の震災を契機に記憶を継承できるシステムの構築はミュージアムが地域の情報を集約する役割と拠点であることからも、重要かつ急務の課題であるといえる。
また、震災から復旧そして再開のプロセスを経て、地域におけるミュージアムの役割を再認識する場面が多々あったとする学芸員の声は少なくない。これらが今後企画展の事業内容や、日常的な地域との関わりなどの局面で様々な形で具体化されることに期待したい。


5.次なるミュージアムに向けて
 多くのミュージアムが被災した現状は、従来の災害に対するミュージアムの在り方を真摯にその原点に立ち戻り、再考することが求められている。施設単体での災害への対応の限界が露呈したともいえる。そしてハードとのみならず、ソフトとしての持続的なミュージアムを成立させるための課題と手がかりが、このミュージアムの被災から再開までのプロセスに凝縮されているともいえる。
 特に福島第一原発事故により発生した課題と求められた対応は、従来の考え方の限界と新たなる災害への考えを迫るものである。
 しかしながら、被災から再開までのミュージアムの動きを捉えていくと、そこには様々なネットワークや関係が重要な役割を果たしたことを垣間見えたことも事実である。
 縮退化社会を迎えミュージアムの持続的な運営が模索されている。このプロセスの中で経験され蓄積されたネットワークを日常的な仕組みと、新たなる災害に対応するためのツールとして如何に展開できるかが問われている。そして、ネットワークを基本としたミュージアムの在り方は、地域の資源や場を個々に繋ぎつつ、地域外のミュージアムと繋がることにより新たな価値を創出する可能性もある。
 しかしながら、冒頭に示したように被災地のミュージアムをめぐる現実的な課題は山積しており、数年後アクティビティーが急速に劣化することも危惧されている。また新たな災害への対応は、国内の様々なミュージアムが直面している。その意味でも今回の震災の様々なプロセスを幅広く共有すること、そして経験とプロセスを踏まえた新たなネットワークの仕組みづくりへの第一歩は、今踏み出さなくてはならないはずである。


参考文献:東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会平成23年度活動報告書 2012年10月

コラムをまとめて読む場合は、下記からご覧ください。

関連コラム

ページトップへ