ご覧のページは、これまでのコンソーシアムのホームページを活用し、コンソーシアムの活動記録や資料等をアーカイブ化したものになります。

忘れない 文化芸術が紡ぐ絆を信じ 6

文化芸術による復興推進コンソーシアム エグゼクティヴ・コーディネーター
渡辺 一雄

写真:宮古市民文化会館


“コンソーシアム/被災地との血流を目指し”


 コンソーシアムでは、去る10月に「復興推進員」という文化芸術の分野で活躍される主だった方に被災地復興情報の提供等モニタリング的役割をお願いすることにしました。 被災3県の文化NPO,芸術家、学校関係者、医師、行政の皆様です。
 5月に発足した「コンソーシアム」にとって、これからの活動を効果的に、特に“被災地目線”で仕事を進めていく上でなくてはならない役割を期待してのことです。


 この方々と先月直接お会いしました。昨年来の活動の状況を中心に現状やこれからの課題について話し合いを持ちました。被災したまま改修の手付かずのままの文化ホールを訪問したり、原発放射能のため思い切り外で遊べない子どもたちのために建物を改造した大型プレールームに行ってその様子を見せてもらったりもしました。


 この話し合いで得たものは、或いは考えさせられ、感じたことは何かなど、このブログ で何回かに分けて記してみたいと思います。話題別にやってみましょう。


 先ず取り上げたいのは、被災現場に臨場しての想いです。宮古市でのこと。
 宮古湾が臨める高台からは、美しい静かな景観が眼下に見渡せます。“被災直後、難を逃れた高台の人は犬の散歩、津波を被った低地では呻き声、そんな状況でしたよ。”
 死亡者517名、行方不明者94名(*)。尊い命を奪ったあの日のことを語る様子に、はっと我に返る自分を、間違いなく徐々に風化が始まっている我が心情に気付かされました。湾を巡って高台、或いは閉校になった小学校のグラウンドなどに点在する仮説住宅、乾された洗濯物、人気はありませんでしたが、生々しいあの日のことが一瞬蘇った感がしました。
 市立の文化ホール。殆ど真っ暗な中で懐中電灯を頼りに客席、ステージ、機械室などまだ海水、泥の後が見て取れるなか、やっと来年建物改修に入れることで一条の光が差したかの想いを語って頂きました。館長室にあった時計は、波が襲った瞬間の時刻を指したまま止まっていましたが、やっと動き出すきっかけが見出せたのですね。


 今「コンソーシアム」に集うメンバーは、こうした被災地現場に立って日々その復興の歩みを進めておられる皆様と“太い血管”で繋がることを重視し、言葉ではなく何を具体的にやっていかなくてはならないかを考える努力をしています。
 “語り部”の役割、出番の大事さを意識させられました。“忘れない”、“忘れてはならない”、そのためにもお願いした「復興推進員」の皆様の方からも今度はどんどん語ってもらう、双方向の想いが行き交う日、あふれる熱い血の流れる日が遠からずやってくることを 信じます。
 勿論そのためにはどうすれば良いかを思案しつつ。



写真:高台から宮古湾を臨む


(*)平成24年11月6日現在(宮古市危機管理課:宮古市HPより) 

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