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試される文化芸術のチカラ 5 ~二つの芝居小屋

東北文化学園大学総合政策学部教授 東北大学特任教授(客員)
志賀野 桂一

(写真左:擬洋風建築の「康楽館」、写真右:和風建築の「八千代座」)


5.二つの芝居小屋


 近世江戸の演劇の伝統を継承する芝居小屋が全国には新旧合わせて約30館程度存在しているといわれています。こうした中で常打ち小屋として活発に催事が行われ、まちの活性化にも寄与している館は極めて少ないのが現状です。今回は北と南の代表的な芝居小屋を紹介してみたいと思います。
 それは秋田県の小坂町康楽館と、熊本県山鹿市の八千代座ですが、奇しくも2館とも明治43年に開館し、現在では2館とも国の重要文化財の指定を受けています。


 能楽堂は、幕府の庇護のもとに武家の式楽として発達した能楽とともに、今日でも公共施設の整備対象とされているに対し、多くの芝居小屋は放置され解体されるというという憂き目にあってきました。庶民の演劇場として親しまれた数多くの芝居小屋ですが、時代とともに映画やTVなど娯楽が変化・多様化する中でその存続が困難となり、全国数少ないのが芝居小屋の現状です。しかしこうした中にあって戦災にも遭遇することなく、奇跡的にも残存してきた芝居小屋の代表格がこの2館です。地元商店会や、民間の有志の活動などで再生、改修されることで、往時の輝きを取り戻し、市や町の重要な観光資源として脚光を浴びています。地方都市の人口減少や商店街の衰退が続く中、まちの再生や活性化の起爆剤として芝居小屋の価値が見直されているのです。


●鉱山町の生きた記念碑としての康楽館
 小坂町の康楽館は、鉱山従業員の慰安施設として外観が洋風で、内部が江戸風(和風)という和様折衷の建築で1年半をかけて完成したといわれている。鉱山事務所の建物とともに日露戦争が終わったばかりの鉱山町の隆盛を象徴する芝居小屋であったと思われます。
 杮落しは大阪歌舞伎の尾上松鶴一座による「寿式三番叟(ことぶきさんばそう)」に始まり「仮名手本忠臣蔵」などの当り狂言が行われたという。歌舞伎芝居だけではなく文学講演会、演劇など様々な文化的催事が行われました。一時期、劇場は戦時下で外国人労働者の収容施設に転用され、昭和に入ってからは老朽化で昭和45年に興業が中止されるなど幾多の変遷を経て昭和60年に再び劇場として蘇っています。この間中村富十郎、中村雀右衛門、市川団十郎(12代)などかつての名優が公演を行われています。昭和61年から平成17年まで、常設公演が大衆演劇の伊東元春によって実に20年間(1日3回)ギネス級の1万回を超える舞台が続けられました。その間私も何度か訪れましたが、いつも同じように座長芝居が鑑賞できたものでした。現在、常打ち公演は、松井誠の『下町かぶき組』に引き継がれています。


(写真左:康楽館内部607席、写真右:八千代座内部天井 700席)


●まちづくりを牽引する「八千代座」
 熊本県山鹿市は小坂町の10倍の人口規模ですが芝居小屋の機構はよく似ています。間口約6間、奥行き約6間の舞台に廻り舞台、迫りを持ち、花道にはすっぽんがあります。客席は平土間の桝席とそれを取り囲む1,2階の桟敷席、全て畳敷きの床座です。こうした江戸時代の芝居小屋の形式を色濃く残すと共に、きらびやかな天井広告群、客席中央上部に設置されたシャンデリア等、建設され最盛期を過ごした明治大正の「ハイカラ」な雰囲気を伝える劇場です。
 その歴史は、明治43年に温泉地であり交通の要所として栄えていた山鹿のまちの人々が組合を組織し、資金を出し合って建設した芝居小屋です。全盛期は、大正から昭和初期でした。戦後八千代座もその頃映画館へと改造され、その後映画の衰退と共に八千代座も休止状態となります。屋根の破損がひどく、大量の雨漏りによって建物は痛み、朽ち果てるのを待つばかりといった姿であったといいます。撤去し再開発をという声に対して、老人会の「瓦一枚運動」という、雨漏りを直すための募金活動をきっかけに若者達も触発され復興に動き出します。加えてまちの人々が、地道な清掃活動、演劇興行・講演会・ジャズコンサート等の公演活動を積み重ね、昭和63年に国の重要文化財の指定を受けることになります。さらに坂東玉三郎の公演により、八千代座は全国的にその存在を知られるようになりました。
 平成8年から、重要文化財としての調査と、修理の為に「平成の大修理」と呼ばれる解体修理に入ります。その工事は、「活きた芝居小屋」として活用することを前提として行われます。建設当初の姿に戻すという重要文化財の大原則を前提としながら、活用に耐えられる構造補強と、大胆で繊細な活用設備(照明、音響、バリヤフリー等)の整備が行われています。5年近い工事期間を終え、平成13年6月に再開されました。
 内装は2館とも同じような風情ですが、よく見ると成り立ちや仕様の違いが分かります。まちの人々がつくり再生復興した八千代座であることの証は、天井や欄間の広告の装飾でわかります。また最近山鹿市の話題として「さくら湯」という寛永7年(372年前)に起源をもつ江戸の風情そのままの浴場が再生されました。八千代座の再生復興が先行事例となって、近代再開発とは異なる山鹿市のまちづくりの方向を指し示したと思える事例です。


(写真左:東日本大震災応援Tシャツ、写真中:公演直前の八千代座、写真右:康楽館楽屋に残された役者の落書き)
©写真撮影:志賀野


 人口減少時代の地方都市の生き残り競争の中で、小さな都市は近代化の反省から一時代を遡る文化戦略で活路を見出そうとしている。こうした小坂町や山鹿市の考えは古くて新しいまちづくりの指針のひとつを提示しているように私には感じられたのでした。

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