ご覧のページは、これまでのコンソーシアムのホームページを活用し、コンソーシアムの活動記録や資料等をアーカイブ化したものになります。

忘れない 文化芸術が紡ぐ絆を信じ 5

文化芸術による復興推進コンソーシアム エグゼクティヴ・コーディネーター
渡辺 一雄

写真:鵜住居青年会提供


 


“被災地の想いに向き合えることの意味 その3”- 娘をもつ尺八吹きとしての筆者が共感するところ~


 今回は、去る9月釜石を訪問した際に逃したチャンスへの述懐から始まります。


 “まつり囃子の笛が供養の笛に変わるまで”と題する「平成23年度版調査報告書第5章 東日本大震災と文化芸術の役割」(橋本裕之・盛岡大学 186頁)のくだりには少なからず感動、共感を覚えるとともに、震災を体験しなかった我々が被災者に寄り添う想いとは一体何か?その本当を考えさせる大きな力を宿しています。
途中何回も絶句し、最後までは感涙なしには到底読みきれません。今もなお。


 件の“語り”は、釜石市の「鵜住居虎舞」のお囃子を勤めてこられた方が作られたものです。この方は、高校1年生の娘さんと母親を亡くされています。


 実はわたし自身が邦楽器(尺八)を嗜むこと、加えて末娘(彼女はトランペット奏者であった)の辛らつな批評に耐えながら尺八の腕を磨いた過去の(苦い)体験に重ねて、最近になってこの“語り”を読ませていただいた後に、「ああしまった!何でこの作者にあの時会わなかったのか・・・」と悔やんだことを意味しています。


 以前書いたこともあるように、芸能、文化芸術は人の心と心を難しいこと抜きに直接つなぐ力を持っていることからも、同じジャンルの楽器演奏修業を体験することで共感を可能とすることをこの“語り”を読んで先ず実感したのです。


 しかし、それだけではありません。加えて強調したいのは、幼い頃からの父と娘の関係性がそうした芸術的行為の特性に共鳴し、より一層作者の被災から立ち上がろうとする切なる想い、“まつり囃子の笛が供養の笛に変わるまで”との表現、その心情をいやがおうにも引き出し、訴えている点です。


 こんなくだりがあります。
 “記憶は定かではありませんが 震災から2ヵ月近くが過ぎた頃だったでしょうか。
 そう(娘の前で、笛を吹いてあげたいと)思ったときがありました。お骨の前でもいい、娘のために笛を吹きたい。娘に聴かせたい。そして娘の前で吹きました・・・。
 今まで笛を吹いてきて これほど悲しい笛はなかったと思います。涙が止まりませんでしたが 虎舞の演目全て吹きました。娘と話をしながら いつも側で笛を聴いていた 娘に届いてほしいと思い 泣きながら 顔がくしゃくしゃになりましたが 最後まで吹きました。(中略)(震災までは、虎舞は祝いの踊り)しかし、今回の震災で亡き娘を思う気持ちが まつり囃子の笛から供養の笛に変わったような気がします。“(カッコ内、太字部分筆者補筆修正)


 読み進んだ私自身、何回読んでもこの段で絶句、それこそ顔がくしゃくしゃになります。


 “過去にも沿岸地方は大きな災害を受けてきたと思います。ですが、先人達は乗り越えてきました。それが地域に伝わる文化であり芸能だったのではないかと思います。まだまだ復興まで、そして昔ながらのお祭りができるまでは 時間がかかると思います。ですが亡き娘のためにも、生涯笛を吹き続け そして犠牲になられたたくさんの方のためにも 郷土芸能で町を盛り上げて行きたいと思います。”(同)


 想いを凝縮したそうした“語り”。その重さをひしひしと感じ取り共感を覚えるところから文化芸術による復興支援の道筋は見えてくると思います。


 さて、11月下旬から被災地3県で地元委嘱された第1回目の「復興推進員」連絡会議が開催されます。このブログ著者もこれが最大の狙いとする被災地と復興推進コンソーシアムとの間で本格的な血流が実現するにはどうすればよいか、何が必要かを考え、ひとつの手がかりとして、そうした虎舞お囃子奏者との間に熱い思いが通い合えるよう、先ずは被災地と心情的に交わって来たいと思います。


写真:鵜住居青年会提供


三陸復光祈願護摩供養における鵜住居虎舞 (2011年9月18 日、鵜住居観音堂 跡、千葉暁子撮影)


 

コラムをまとめて読む場合は、下記からご覧ください。

関連コラム

ページトップへ