レポート
『三陸国際芸術祭報告と郷土芸能を通じた国際交流セミナー』に行ってきました。
10月28日に国際交流基金 JFICホールで開催された『三陸国際芸術祭報告と郷土芸能を通じた国際交流セミナー』に参加しました。8月に「三陸国際芸術祭2014」を視察したこともあり、楽しみにしていたセミナーです。
三陸国際芸術祭は、郷土芸能の宝庫である東北沿岸部・三陸地域の魅力を、日本全国そして世界に発信し、芸術文化による国際交流の柱として、郷土芸能を位置づけ、三陸地域沿岸部(東日本大震災/津波の甚大な被害があった地域)の野外で開催し、国内外の人々が震災を考え続けるきっかけになることを目的とした芸術祭です。
東日本大震災からの復興の過程で注目されるようになった、地域の人々の心の復興や絆の形成に郷土芸能や祭が果たす重要な役割を確認し、プログラムに韓国とインドネシアの郷土芸能を取込んで郷土芸能による国際交流の可能性を示したことにより、各方面から注目を受けています。(芸術祭当日の詳しいレポートはこちらをご覧下さい。)
この日のセミナーは、郷土芸能を通じた国際交流の関係構築、被災地復興、また地方再生の可能性を探るため、郷土芸能と国際交流に関する情報・意見交換を目的として開催されました。
三陸国際芸術祭の仕掛人であるNPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)の佐東範一さんと北本麻理さん、大船渡市郷土芸能協会副会長の古水力さん、現地大船渡で芸術祭の運営事務局を担った「みんなのしるし合同会社」代表の前川十之朗さん、プログラムのディレクションを担当した公益社団法人全日本郷土芸能協会の小岩秀太郎さんの他、ディスカッションには、公益社団法人企業メセナ協議会専務理事の加藤種男さん、ニッセイ基礎研究所研究理事の吉本光宏さんなど、そうそうたるメンバーが登壇しました。
まず最初に、三陸国際芸術祭の当日の記録映像を見ながら実施報告が行われ、どういう 想いから、この企画が発芽したのか説明がありました。
『なぜ、コンテンポラリーダンスを扱うJCDNが郷土芸能の国際芸術祭を作ったのか?』
そう疑問に思った方は大勢いるかと思います。JCDNの佐東さんからは、まず三陸国際芸術祭という企画が生まれるまでの経緯を説明していただきました。
東日本大震災の発生後、多くの表現者たちが“被災者のために何かしたい”と思い、自分の表現を見せることによって元気づけようと被災地を訪れている中、ダンスアーティストに出来ることは何だろうと考え、身体の専門家として、アーティストがダンスを踊るのではなく、被災された方々の“からだをほぐす”ことを目的に、JCDNは被災地に伺うことを始めました。
この『からだをほぐせば、こころもほぐれてくる』を1年ほど続けていく中で“自分たちがしたいと思ったことをやる”ということで本当に良いのだろうか、本当に被災された方々は満足してくれているのだろうか、という疑問を持ち始めるようになったそうです。
アーティストが何かをしに行くと、結局被災された方々は受け身になる。人のために何かをしに行ったはずなのに、結局主役はこちらなのでは。そのとき“文化芸術による復興”と考えていたことの意味は、外からの文化芸術で被災地を何とかしようとすることで、それは大きな勘違いなのではないのだろうかと気づいたそうです。
改めて、自分たちの役割、自分たちの専門性を活かしたことが出来ないかと考えたとき、例えば、郷土芸能の跡を継ぐ人がいないと問題になっているのなら、自分たちが習いに行って引き継いであげることが出来ないかと考えるようになり、そこから生まれたのが『習いに行くぜ!!東北へ!!』というプロジェクトでした。
『習いに行くぜ!東北へ!!』はダンスアーティストが、岩手県大船渡、大槌町、宮城県気仙沼などの被災地域に滞在し、各地の郷土芸能を習うとともに、地元の方々と出会い、話し、地域の文化に深く触れるというプロジェクトです。
東北の郷土芸能を習いに行き、東北の文化芸能の多様性と奥深さ、郷土芸能の重要性に直接触れ、習い、お話を伺い、地元の方々の郷土芸能を大切にする心を主役に、東北にある文化を受け取りながら広げていきました。
さて、このような経緯で出会ったコンテンポラリーダンスと郷土芸能ですが、郷土芸能と触れ合うことによってダンスアーティストたちにある“気づき”が生まれたそうです。
『習いに行くぜ!東北へ!!』のプロジェクトを企画するにあたり、佐東さんは全日本郷土芸能協会の小岩秀太郎さんから、外から来る人たちに東北にある文化を受け継がせていただく「受け元」になってくれる方として、古水力さんを紹介して貰いました。
古水さんは、大船渡市郷土芸能協会副会長を務める他、浦浜念仏剣舞と金津流浦浜獅子躍の保存会の会長も務めています。
佐東さんはそれまで、郷土芸能という世界に対して、少し怖いような、簡単に足を踏み入れられないイメージを持っていたそうですが、古水さんと話していくうちに、そのイメージは大きく変ったそうです。
それは「郷土芸能がどうやって成り立っているのか」という質問をした時に、佐東さんは以前自分が活動していた舞踏のグループの中で行っていたことと、ほとんど同じことが郷土芸能でも行われているということでした。
例えば、郷土芸能の保存会のメンバーは、普段仕事をしている時以外は、ほとんど芸能のことを考えてしまうそうです。仕事が終わったらみんなで集まり、稽古をする。稽古が終われば、みんなで酒を飲みながら、例えば“手の振り”について、朝まで議論を交わすこともある。
佐東さんはそういった話を聞いて、現代の表現として行われているコンテンポラリーダンスも、ずっと受け継がれてきた郷土芸能も「同じ世界」なんだと気付くことができ、親近感を感じるようになったそうです。
また、郷土芸能を間近で見ていく中で「今までは海外ばかりを見て、気付くことが出来なかったけど、日本の中にこんなに凄いものがあるんだ!」と大きな衝撃を受けたそうです。
そして、郷土芸能の魅力を知った佐東さんは、古水さんとお酒を酌み交わした時に、三陸国際芸術祭の企画を思いつきます。「もし、ここで国際芸術祭を開いたら地域が活気付くし、世界中の人たちが来るような場を作れたら面白いよね。」と古水さんが言った何気ない一言がきっかけでした。
佐東さんもそれを聞いて「世界の人が東北に郷土芸能を習いに来て、郷土芸能に触れる機会となる芸術祭を作ってみたい」と思ったことから、三陸国際芸術祭の企画がスタートしました。
佐東さんが感じた、郷土芸能への驚きと尊敬がこの企画の推進力だったのでしょう。
「これほどに誇れるものが東北にあるのなら、世界に対して、もっと郷土芸能が輝ける機会を一緒になって作りたかった。“復興”という気持ち以上に、この国で見つけた“宝物”を発信して、世界中の人々に触れて欲しかった。」と語る佐東さんの想いは三陸国際芸術祭の初年度が終わった今でも変わらないそうです。
自身も行山流鹿踊の踊り手であり、全日本郷土芸能協会のプロデューサーという立場でもある小岩秀太郎さんの視点から、三陸国際芸術祭についてのコメントがありました。
今回の三陸国際芸術祭は、小岩さん自身も、芸術文化活動と郷土芸能が繋がることの可能性について改めて気付かされる場になったそうです。
芸術文化と郷土芸能は共に、表現したいことや、捧げたいものがあるという点、そして表現することによってもたらされる「心の高揚」に大きな共通点があり、『ゴジラ』の映画音楽を作曲したことで有名な伊福部昭さんが、かつて鹿踊を題材に作曲したこともあるなど、アーティストと郷土芸能の関わりというのは、実は何十年も前から存在していたことも伺えました。
大正時代頃から、郷土芸能はその土地から出て、多くの人々に「見せる」という動きが出てきました。戦後、大阪万博において日本のふるさとを国内外に演出的に見せていこうという流れが生まれた際には、舞台演出などの芸術の技法によって、郷土芸能の海外への発信がアシストされたそうです。